小さな頃から自分の中で感じていた日常のちょっとした出来事。
人とちょっと違う自分
日常の気になる光景
HSPの中には自分が感じている引っかかりを
誰にも話さずに来た方が多いのではないかと思います。
なぜなら理解してもらうには説明が必要なことばかりで、
それは子供にとっては簡単なことでなく、
また大半は「気にしすぎ」で済まされてしまうため。
あぁ、あのこともこのことももしかして。
どうしてこんな風に考えてしまうのか。
HSPという言葉を知ってから、
これまでの引っかかり、
自分へ向けられた疑問の目が少し解けつつあります。
アダルトチルドレンのタイプ別診断では
プラケーターとピエロにぴったりのわたしが
そんな自分という存在を理解し始めた。
幼少期に考えていたことを思い出すと、
HSP気質とアダルトチルドレンの思考の両方の特徴を感じずにはいられないです。
人と同じに出来なくても
自分を卑下しなくていいのかもしれない。
断片的にでも、
そんな風に思うことができるようになりたい。今日は、
HSP×ACアダルトチルドレン(プラケーターとピエロ)あるある?
幼少期の思考の癖について綴ってみようと思います。
(ここではあくまで幼少期に感じていたことを書きます。
大人になってから感じることは少々複雑。
HSP気質とアダルトチルドレンの思考は深く関係していると感じます。)
HSPとは?
玄関の靴を揃えるおばけ
靴を揃えなさい
しつけを守り、いつも玄関の靴の状態が気になっていました。
ひきこもりのおじいちゃんは庭には出ることが出来たので、
草履をよく履いていました。
脱ぐ時は玄関に向かってまっすぐ脱いでいたため、
いつしかおじいちゃんの草履を揃えるのは
わたしの役目みたいなものになっていました。
「靴を揃えなさい」
口酸っぱく言われてきたので、
気が付くと家族の靴を揃える癖がついていました。
そして、いつしかこんなことを考えるようになっていました。
【自分が揃えていない靴がきれいに並んでいたら、
おばけが来たと思って怖がらせてしまうかもしれない・・・】
幼少期の思考と言えば頷けるかもしれないですが、
そのことでずっと悩んでいたのを覚えています。
「わたしが揃えたのだから、怖がらなくていいからね。」
そう伝えていたような記憶も。
いつも何かに怯えていたおじいちゃんを支えてあげないといけない
そんな風に思っていました。
タンスに挟まれた服の気持ち
今でも鮮明に覚えている
タンスに挟まった服の端っこのこと。
タンスの引き出しを閉める時に少しだけはみ出てしまった部分。
その部分が服の“耳”に感じてしまい、
誰かの耳を挟んでしまったような感覚になっていました。
タンスの引き出しに挟まれた服の気持ちを
直に感じ、入れなおしていた小学生。
今でも何かが少し挟まっているとその時の少しだけ挟まった服のことを思い出します。
出かけている間に家族が殺されたらどうしようという不安
年に一度、夏休みに旅行に連れて行ってもらっていました。
旅行にはおじいちゃんとおばあちゃんは行きませんでした。
おじいちゃんは「出かけると殺される」と日々唱えていたので、
旅行に行く日が近づいてくると普段に増して期限が悪くなりました。
ご機嫌とり係のわたしはおじいちゃんに
「すぐ帰ってくるからね。死なないでね。」
そう言っておじいちゃんがいいよと言ってくれるのをひたすらお願いしていました。
「おじいさんは死ぬ。」
そんなことを毎日聞かされていたわたしは
ご機嫌とりをしながら、
いつしか「おじいちゃんが本当に死んじゃう」
そう思っていました。(年一度の旅行に限らず)
旅行に行っても、
早く帰りたい。
おじいちゃんが可哀そう。
そんなことばかり考えていました。
1人で買い物をしている初老の男性を見ると心配になってしまう
正直、勝手にこんな風に思われた相手は快く思わないと思います。
その人は好きで1人でいる可能性もあるし、
家に家族がいるかもしれません。
けれど、一部の初老の男性がワンカップとお惣菜のセットをかごに入れているところを見てしまうと、
幼心に心がざわついて、
いちいち悲しくなっていたのを覚えています。
(勝手にこんな気持ちになって、本当にすみません)
こんな感情はまるで上から目線からくるものだ、
そう受け取られても仕方ないかもしれないのですが、
自分でもこんな気持ちになりたくないのに、
勝手に気持ちが動いてしまうのです。
大人になってから気付いたこと。
引きこもりのおじいちゃんのご機嫌取りや
自分の中で可哀そうな母の気持ちを汲み取ることを日常的にしていたので、
半自動的に人の気持ちを過剰に汲み取りすぎていたのかなとも思います。
もしあなたにもこのような感情を抱く癖があって
そんな自分は嫌だと辛いのなら、原因として、
アダルトチルドレンのプラケーターが関係しているかもしれません。
度を超えた同情が大切な誰かや自分が傷つくことを過度に恐れさせる
以上、幼少期考えていたことについて、今思い出したものを書いてみました。
自分の周りにいる該当者を見ていても、
HSPやアダルトチルドレンは
大切な誰かや自分が傷つくことを過度に恐れるあまり
特有の思考回路をしているように思います。
おじいちゃんは悪気があったわけではないと思いますが、
今思えば、分別のつかない幼い子供を相手に
「死んでしまう」などと発言したり、
過度の不安を共有、同情を求めるのは良くないと思います。
けれど、おじいちゃんは不安で仕方なかった。
だれも見極める余裕のない機能不全家族においては
わたしがおじいちゃんのプラケーター(慰め役)になるのは仕方のないことだったのです。
誰にも見せられない本当の自分をブログに書くことで
子供らしくのほほんと幼少期を過ごせたら、
この世界がもっと安心できる場所だと実感できたら、
人を信頼したり、自分を信頼したり・・・
良い人間関係を築くことができたのかもしれません。
それでも、生きづらさを抱えながらも今まで生きてきました。
ネット社会が進み、
ブログを読んだり、
自分と同じような境遇の人や
同じ悩みをもっている人の気持ちにも触れる機会が持てるようになったことは
わたしにとって、とてもとても勇気づけられることです。
誰にも見せられない本当の自分をこうしてブログに書くこともきっと、
自分の中で行き詰っていたところから一歩進む気持ちの整理の場になっています。
こんな取り留めのないブログですが、読んで下さる人がいて・・・
いつも本当にありがとうございます。
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