べきの思考と精神的な抑圧が危うい理由

アダルトチルドレン
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アダルトチルドレンという言葉を知ってから、
自分の生きづらさの輪郭が見えてきて
“向き合っていかなくては”と
必死になっていたように思います。
そのことがいつも頭の中にあって、
育った実家と家族のことばかり考えていました。

小さい頃から刷り込まれた、
抑圧するための言葉たち。

〜してはいけないよ、
世間体を気にする両親と
おじいちゃんおばあちゃん、
おばさんの言葉。
両親が教師という職業柄、
おばさんからは顔を合わせる度に
「悪いことしちゃいけないよ」と言われてきました。

中学生の頃、門限が早いことや夏のバーベキューの集まり、
バスに乗って隣町に行くことなど、
周りの友達がしていることが許されませでした。

“すべては非行の始まり”
と言って、抑圧されました。
そしてわたしはあるがままの家のルールを
友達に言うことが出来なかったのです。

そんなことで不安になるなら、
本当の友達ではない。
大人になった今ならそんな風にも思えるのですが、
当時はそれが嫌で嫌で仕方なかったのです。

わたしに自己肯定感があれば、
それで頭がいっぱいいっぱいになることも無かったのかもしれないですが、
当時は不安で仕方無かったです。

何もかも、我慢することが美徳とされ、
そこで抱えた感情を開放する手段はありませんでした。

その家ごとで、
しつけやルールを設けるのは
当たり前のことだと思っています。
けれども同時に厳しいだけでなく、
子供の意欲を削がない、
他の部分で開放させてあげる事も必要なのではないかと思います。

〜してはいけないと〜すべきは似ていて、
それは両者とも考えに余白がないという難点があります。

算数の答えのような考え方をすれば、
正解以外はすべて不正解になってしまう。
白か黒。
こうゆう考え方がベースにあると
正解でないものを許せなくなってしまう
という点で非常に不安定だと思うのです。

また、〜すべきの思考が日常化すると、
楽しいことまでに義務感が漂ってしまう。

考え方とはその人の癖のようなものなので、
それひとつをとっても
人生を有意義にいい意味で自由に
しなやかに生きられるかどうかへと反映されます。

〜すべきの思考が
アダルトチルドレンを苦しめていことに気が付き、
それを〜したいに言い換えることで
気持ちが楽になるかもしれません。

〜してはいけないよ。
悪いことをしていないうちから、叱られる感覚。
世間から見て
子供がみっともなくならないように
抑圧する。

それは親の一方的な押し付けで、自分の手の平の中で子供を飼いならすようなことだと思います。

しつけとずれた抑圧。それは子供の精神の成長を阻害するばかりか、自主性を失い他人や自分をも信じられなくなるかもしれない。

わたしは純粋な子供の気持ちを潰してしまわない子育てを目指したいです。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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